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大学生活をふりかえって

 

橋本ゼミ

20053月卒業生のエッセイ

 

 

宮部朗子

小柳太郎

湊谷周平

松井英里奈

高井彩

佐々木育子

吉田香織

(提出順)

 

 

 

 

宮部朗子 大学生活をふりかえって

 

その一:北海道大学における御本の埋蔵に与ふる書

 これより、北海道大学の図書埋蔵量はすごいということを皆々様にお伝えいたしましょう。

 2004年十一月十九日(金)から2005年一月二十三日(日)にかけて北海道立三岸好太郎美術館でひらかれておりました、「大衆の心に生きた画家たち――挿絵の黄金時代」と題します、主として大正ロマンティシズムをになった挿絵画家の絵画展。かの「やまだモンゴル」で激しく交わされし「宮部高貴論争」(註1)の主人公として名高いわたくしは、言うまでもなくこのエレガントな催しに、てくてく足を運んだのでした。――こじんまりとした館内にひっそり並べられるは、我が巨匠たちの魂。永井荷風の代表作『墨東奇譚』の挿絵を描いたことで、一躍その名を世に馳せることとなった木村荘八(この人、岸田劉生に自分の描いた静物画を批判され、思わず泣いてしまったのですよ。なんてラヴリィな殿方でしょう)の原画。近年、美輪明宏、嶽本野ばらなどの活躍により、再フィーバーするにいたった竹久夢二や高畠華宵など、弥生美術館所蔵がほこる麗しきエス&ビー。蕗谷虹児によって命を吹き込まれし、それはそれは軽やかなる乙女。……ああ、わたくしの栄養素よ、あなかしこ。しかしながら、その中でもっとも胸打ったもの、それは初山滋という御方の描いた、アール・ヌーヴォーを歪曲的に感じさせる作品でございました。恥ずかしながら、わたくしはそれまで初山滋なる画家を存じ上げておりませんでしたし、その絵画展にも彼の作品はわずか二点しか飾られていませんでした。けれども、壁の隅にかけられし、独特の線が交錯する、ともすればシュルレアリスムにまで陥りそうな、ぎりぎりの品性をたたえた彼の世界に、わたくしはすっかり魅了されてしまったのです。「なんという危うさ!」。その後即座に大学の情報処理室へとおもむき、現代を生きるわたくしは、文明の器機として有名なインターネットの力を借り、懸命に「初山滋」を検索いたしました。そうしてまんまと彼の情報をゲットすることができたのです。のみならず、「せっかく大学まで来たのだから、図書館でも「初山滋」を検索して見ましょう」と、貪欲なわたくしは、だめもとで初山滋に関する著作を、北大図書館でさがしてみることにいたしました。――ふつう、大学の図書館に、マイナーな挿絵画家に関連した書物なぞ、置いているはずがないのです。しかし、昔の偉いお坊さんは仰いました(?)、「物は試し」。カチャカチャと検索をかけた結果、おどろくべきことに、初山滋のかいた絵本が書庫におさめられていたのです! おそるべし、北海道大学図書館(本館・書庫・和書)。偉大なる、北海道大学図書館(本館・書庫・和書)。ビバ、北海道大学図書館(本館・書庫・和書)。――さて、うやうやしく手にとりし、記念すべき絵本のタイトル、その名も『たべるトンちゃん』。約30ページにわたり、ブタ(このブタの名前がトンちゃん)がさまざまな料理を食べつづけ、最後にトンカツ屋さんが登場し、トンちゃんをさらっていくというお話です。こうして、たべるトンちゃんは、たべられるトンちゃんになりました、ちゃんちゃん。そういった言葉で、物語は締めくくられておりました。……それを読み終えたときの感動といったら! この絵本は、もともと昭和12年に金蘭社が出版したものを、昭和49年にぽるぷ出版が「名著復刻日本児童文学館第二集」として再出版したものなのですが、エドワード・ゴーリーが登場する以前に、かような絵本が日本に存在していたなんて! その手法は、『優雅に叱責する自転車』と同様のもの。子どもが自転車に乗り続けるシーンが延々と続いた後、ラストに「現実」という別名をもつ爆弾(オチ)を投下する。それは非常な危険をともないながらもハイ・クオリティーにストーリーを仕立て上げる伝説の構成方法。――おお、初山滋、『うろんな客』を『不幸な子供』にしてしまうよな『蒼い時』をさっそうとかけぬける憎いヤツ。『ギャシュリークラムのちびっ子たち』もびっくり。興奮して『華々しき鼻血』が流れてしまいそう……。

 以上、北海道大学の図書埋蔵量はすごいということを現場からお伝えしました。

 

1:北大正門付近にあるジンギスカンの店「やまだモンゴル」で、中国に精通する経済大学院生のM氏が「僕は宮部に高貴というイメージを持っていない」といったことが発端となり、一大論争をまきおこした事件。「僕は普段高貴ぶっている宮部より、酒を飲んでくだをまいている宮部の方がいいと思う」というM氏の発言に対し、宮部が「私はたとえ嘔吐していても高貴なのだ」と反論し、同席のS氏が「<高貴>のCの意味に<宮部>って、辞書に書きたさなきゃね」と述べ、一時的合意が成立した。

 

その二:「学部生時代一貫してやっていたこと」の巻

 鬱々としてみたり、泣き叫んでみたり、鼻血にあこがれてみたり、嘔吐してみたり……(どれもこれも暗いなあ)。たちの悪いこと! 口をついて出る言葉はいつも矛盾まみれ。そんな私ではありましたが、大学に入ってから今の今まで人知れずやり続けていたことが実はあります。それは、美術番組の鑑賞と、美術情報のスクラップと、画集あつめ。つまり、テレヴィとインターネット(もしくは新聞・雑誌)と本屋(もしくは美術館)を駆使して、好きな画家に関する知識を収集するということであります。というわけで、今日は、私の美術コレクションの中から、選りすぐりの芸術家を幾人か紹介することにいたしましょう。

 

 まずは、「アールデコの寵児」と呼ばれているエルテ小父様。彼は、私が絵画を愛好する所以を、きわめて簡潔に明言しておられ、しかも生涯その姿勢を貫かれた御方です。「私は非現実的なものを描く。日常生活は十分すぎるほど現実的だから。芸術は現実からの脱出にある」。ああ、なんたる至言! エルテ様のお描きになる絵に登場する女性は、その言葉どおり、ファンタスティック・ワールドに住むことをしか許されておりませぬ。『ハーパース・バザール』191812月号の表紙をかざった「The End of the Romance」なんて、巷にあふれる肉欲を知らない詩人が抱く恋への甘美なる妄想。あまりの可憐さに、思わず赤面してしまいます。しかしながら、エルテ様の描く女性はエレガント、ええ、あくまで優雅。それは男からも社会からも超絶し、きわめてナルシスティックに己の美しさを享受する、誰よりも気高き貴婦人なのです。ただのロリコンになぞ決して甘んじはしません。そしてそれは、エルテ様自身が俗世間から超越していたからこそなせる技だったのでしょう。「私を見るがいい。私は、もう一つの世界、忘却を呼ぶ夢の世界にいるのだ。人は日常の心配事から逃げ出すために薬に走るが、私は薬を必要としたことはない。私にとって創造こそが人生なのだ」。――かくのごときエルテ様を想いつつ、いつの日か僕たちも蝋人形のよに……。

 

 さて、次を急ぎましょう。――彼女は、芸術家というよりはむしろモデルといったほうが適切かと思われます。その名も、アリス・プラン(通称キキ)。「モンパルナスの女王」なる異名を持つ彼女――コート一枚しか羽織らずカフェーに現れその肉体をおしげもなく画家に見せたという彼女――は、藤田嗣治やジュール・パスキン、モイーズ・キスリング、ハイム・スーチンなど、エコール・ド・パリを代表するナイス・ガイズに愛された女性です。そんな彼女の回想録(註2)があることを、果たして誰が? ともかく、私はアメリカで一度発禁処分を受けたというアリス・プランの回想録を、日本は北海道、札幌の丸善で発見いたしました。折りしも、なぜかベロベロに酔っ払っていた私ではありましたが、天変地異を起こしたように理性が購入を勧めてきたので、無事、その本をゲット。――キキの身体は、ともすれば醜いのやもしれません。少し多めについた脂肪、処理されぬまま放置されし腋の下、太腿についたあざ(レストランのテーブルにのぼり店員と喧嘩したときにこしらえたのでせうか)……。しかしながら、彼女の裸体は、魅惑的。それは、アヴァンギャルドの女王であらせられるところのヴィヴィアン・ウエストウッドが仰った「究極のファッションは裸である」という台詞を彷彿とさせます。思へらく、その魅力は、彼女が鎧を纏わないで生きてきたことに由来するものでしょう。複雑な家庭に端を発する幼少時代、成長してパリに出てきてからもしばらくは見つからなかった居場所、あてもなく街をさまよう日々……。「お父さんには奥さんと女の子がいて、お父さん、ふたりにはとてもやさしかった。ふたりは着る服もすてきなのをもってました。お父さんはあたしに話しかけたことは一度もなかったけど、いつもあたしを奇妙な目つきで見てた」。「あたしたちはとっても貧しかったから、週に二度、愛徳修道会の尼さんのとこに、お米かいんげん豆のスープをもらいにいきました。それは、あたしやいとこにとっては本物の拷問。あたしたち、尼さんに好かれてなかったからです」。「ロベールはアメリカのハンサムな兵隊さんがいるよと言って、あたしをブルヴァールにいかせたがった。あたしを殴り、怒鳴りつけた。だって「おまえはなんにもできない」からです! あたしは仕事を探したけれど、見つからなかった」。――けれども、キキはいつしかこう言うようになります、多分、少し、はにかみながら。「あたし、あたしは自分のほんとうにいるべき場所を見つけました! 画家たちはあたしを仲間と認めてくれた。悲しみは終わり。おなかいっぱい食べられないことはまだよくあったけど、笑いがそんなことみんな忘れさせてくれた」。

 

 ――どうしてこの2人を選んだのか……。そんな野暮なことはお聞きなさるな。私は自

分の学生時代を振りかえったまででございます。

 

2:ビリー・クルーヴァー&ジュリー・マーティン編『キキ裸の回想』(2000年/白水社)

 

 

 

 

小柳太郎『大学生活四方山話』

 

1、はじめに

 私の大学生活を振り返るのならば、そこには二つのターニング・ポイントがあったように思われる。しかしそれもまた、それ以前の高校生活および浪人生活の間の経験の上に成り立つものであって、ある意味で、「自分史」とでも呼ぶべきものの流れの中では単線的な路線(いわば「神の御意志」)で、必然だとも言えた。それを「進化」したのであるとか、「進歩」とかいったような言葉で表現するのは至って不適切であるのは、当たり前のことだろう。だから、思いつくままに、思ったことを書いて行く。

 この四年間の中で、私に明確な方向性を与えたのは、大半が教養時代の先生たちによるものであったのは特筆に価する。曰く、クランキー先生、弓巾先生、小島先生、宇都宮先生であり、櫻井先生であった。教養時代、ガイダンスで履修することを推奨された経済学関連の授業は、大学を「就職のための履歴書の一行」に過ぎないものであるという過去の私の認識を一層強化するものであった。彼らは、私がその当時一番知りたかった「人間」について何ら教えてはくれなかった。

 例外的に、米山先生は、嬉しい先生であった。多分、賛否両論分かれるだろうが、しかし断定的にスパスパ斬るその物言いや、「日本」という国家への愛着のようなものを端々に感じさせる主張は、私の価値観とかなり一致していることもあり、この上もなく楽しい授業であった。多分、50過ぎという年齢から来る重みと、その話芸(と言ったら失礼かも知れないが・・・)の妙、そしてその熱意が、私にそう感じさせたのかも知れない。

 ともかくも、こうした先生たちが、現在の私に対して大きな影響を与えたことは間違いない。そして、その多くが教養時代に出会った先生たちであった。私に感動を与え、知的な興奮を教えてくれた人たち。感謝しても感謝しきれない。もちろん、勉強以外の部分で何かしなかったのか、と言われると、別にそんなことはない。けれど、その大部分は中学時代からの実家の方の友人たちとの間の出来事で、別にここでわざわざ書くことでもないから書かない。でも、読む人にはその話が一番面白い。

 

2、教養時代の先生たち

・愛国仲間―クランキー先生

 この先生は、必修の英語Tの先生で、愛国主義者のアメリカ人。当時の私は「英語をやらなけりゃいけないのは大東亜戦争に負けたから」と真剣に信じていたわけで、英語は敵性語(知っている人も少なくなったろうが)、彼らは「鬼畜米英」だった。ところがフタを開けてみれば、彼が日本を同盟国だと見なし、私の日本に対する愛国心を誉め、そして友人だとさえ言ってくれた。それでアメリカ人のイメージが180度転換した。彼らは私の中で「同盟国にして友人」となった。

 授業のキビシサは、鬼仏表で「元帥」で、洒落にならないと言われ、嫌われているらしい。けれど、私は次の英語Vの時もこの先生のクラスを履修したものだ。この先生を抜きにして、英語に対する嫌悪感は軽減されなかっただろうし、アメリカ嫌いはなくならなかっただろう。

 

・学問を好きにさせてくれた人―弓巾先生

 「論語を読む」という論文指導の授業で、この間全学教育の紙を見たら、また同じタイトルで講義していました。後期は「列女伝を読む」。

 私のいた中学校は、毎週1時間分の校長先生の講話があって、生徒はそれを速記して、感想を書いて提出が義務付けられていた。そこで校長先生が使うのが「論語物語」だったのだが、全部、何でもかんでも学校の勉強に結びつける。無茶苦茶で、いつか論語を読もうと思って、ちょうどいい機会だから、というので履修したのが最初。元々、漢文あるいは漢字が好きだというのもあったけれど・・・

 この時に書いたのが、論語の宗教性について。この先生にレポートを書く楽しさを教えてもらいました。転部を最初に勧めてくれたのもこの先生です。曰く、「学部なんだし、好きなことした方がいいよ」みたいなことを言われ、後期の授業の時には中国思想史案内みたいな本を貸してもらったりもした。

 弓巾(これ一字で“ゆはず”と読む)という苗字は珍しくて、この先生の家族しか日本にはいないのだそうだ。見た目は「イトコのお兄ちゃん」という、優しい感じの人。今だに私の顔を覚えてくれていて、それだけにこの先生のところへ行かなかったのが申し訳ないと、挨拶する度に感じてしまう。

 この先生なしに転部だとか、宗教性だとかについて、真面目に考えようとは思わなかったし、レポートを書くのが好きになることはありえなかっただろう。いわば、私の大学での学問を好きになる基盤を築いてくれた先生でした。

 

・偶然の産物―小島先生

 この先生の授業は、実は履修する気が全くなかったし、最初から計算の中に入っていなかった。「現代資本主義入門」とかいうのを取る気でいたのだが、教室を間違え、人数が少ない上に先生が入ってきてしまったので出るにも出られず、ズルズルと行ってしまったのだ。タイトルは「現代心理学史の科学史的解体」。

 ニュートン流の原子論的発想、行動主義、ヴントの実験心理学、フロイトの心理学、ピアジェの教育、ゲシュタルト心理学等々、今の私の心理学系の知識の引き出しは、全部ここで作られた。人数は少ないし、「ものの見方」そのものを教えてもらい、今だに私の大きな財産の一つ。

 この先生の期末レポートが、どういうわけかB5サイズで提出という面白いもので、「紙が大きいと大変でしょうから」とか言っていた。ほぼ毎回のように配布される参考資料はA4とかなのに・・・だ。

 

・名人芸―宇都宮先生

 この先生の授業を履修した最初は、2年生の前期だった。すでに宗教に対する興味は確定していたので、先生のことはあまり気にしなかった。

 宇都宮先生の宗教学概論は、4年サイクルで履修しないと全貌がつかめないと言われている。というのも、同じテーマはそれくらい経過しないと扱わず、その分だけキッチリやってくれる。話すことも毎回細かく準備されていて、喋り方、身振り手振りが見事にそれを存分に引き出した、一種の芸術でした。

 いかにも大学教授らしい人で、非常に適度な速さで喋り、微笑を口元にうかべていてる。ただ個人としては近づきがたい雰囲気を持っているため、やはり私の中では「芸人」という印象が強い。でも、ただの「芸人」ではなく、まさにお手本というべき授業をする、名人芸だった。

 

・人格者―櫻井先生

 この先生との付き合いは、1年生の後期以来で、一番長い。にも関わらず、よくワカラナイ御人だ。少なくとも私の知っている範囲では、「こうなりたい」人間の見本だとしか言えないのである。どこかしらで穴が見えてもよさそうなものだが・・・

 大部屋授業よりも、少人数のゼミ形式での方が合う先生で、生徒の発言を(どんな変なものでも)上手に拾い上げる。授業は毎年徐々に巧くなっているのが面白い。もっとも、テーマがテーマだけに、私のように感じる人は少ないかもしれない。

 私はこの先生に大変にお世話になったし、これからも二年間はお世話になる予定でいる。宗教社会学を勉強しようと思ったのも、大学院に進学しようと思ったのも、全部この先生がいればこそ、であった。逆を言えば、この先生が「やめておけ」と言っていれば、私は就職していた。それだけ信頼できる何かを持っていた。

 向こうにしてみれば、ワケのワカラン他学部生がやってきていい迷惑だったかも知れないが、嫌な顔一つせずにいてくれたのには本当に頭が下がる。いつできるのかは分からないが、恩返しをしたい…と思っている。

 

3、経済学部生活

 私にとって、経済学部の授業で面白かったものは数えるほどしかない。米山先生の話は冒頭で書いたとおりだが、後は橋本先生と、佐々木(隆)先生位である。内容が面白いのに、先生の喋り方や説明の仕方が拙いせいで、とてつもなく退屈な授業になっていたものも幾つかあった。敢えて名指しはしないけれども・・・

 佐々木先生は、余談が面白かった。別に国際収支の均衡云々の話はどうでも良かったが、歴史とりわけ軍事史の話は絶品であり、喋りにも熱がこもっていた。橋本先生の授業は、内容を詰め込みすぎたような印象が強く、消化不良を起こしていた。けれども、内容自体は解説が入るのである程度までは理解できるし、何より最後の15分程度を使っての生徒の意見を聞く時間は非常に面白かった。

 授業は、先生の芸を楽しむ時間でもあった。話すのが下手でも、どことなく愛着の湧く先生もいて、そんな先生の授業は一生懸命聞いたものだ。向こうが善意から一生懸命やっている(ように見える)のに、こっちがいい加減だと失礼だな、と思うからである。天邪鬼なんだな、私は。

 そんな按配で、大学院進学を心に決めた二年生の後期からは、経済学部の授業も段々と楽しくなってきた。「何かしら大学院での役に立つ」とポジティブに考えられるようになったためもあるし、せっかく文学部のゼミに出ているのだから、経済学的な考え方を身に付ければ「社会学」の考え方が理解できるようになる、と思っていたせいもある。

 橋本ゼミを選択したのも、何でもやっていいゼミだと広告していたためである。今でこそテーマの方向性や内容などは枠が設けられているが、私の時にはそんなものはほとんど無かった。何をやるのかも決まっていなかったし、どういった人が入ってくるのかも分かっていなかった。それゆえ、「ゼミ」としての結束力はほぼ皆無で、個人間の関係性でそれは成立していた。簡単にいえば、結束するに足る理由を持たなかったし、結束することに何のメリットも無かったのである。

 基本的に、経済学部での生活は、大学院進学とその後を目標として作り上げられていた。だから単位もさっさと取ってしまおうと思ったし、元々数字いじりが嫌いでなかったため、そう考えるとマクロ、ミクロの授業も結構楽しいものだった。しかし、その目標に適しない、ないしは妨げると思われるものは撲った。それは誰からのアドバイスを受けるでもなく、自分自身の完成と直感に任せた。傍から見れば生活は滅茶苦茶で、「廃人」とか「ダメ人間」という表現がよく似合っていた。

 

4、酒

 一人暮らしを始めて真っ先に買ったものは、ビール1ケースであった。毎日晩酌をするのは、昔からの私の憧れであった。最初は明けても暮れてもビールであったが、途中からワインや日本酒も飲むようになったが、割合後のことだ。

 現役で大学を受験する時に某大学の学生寮に一ヶ月ほど宿泊していたことがある。その時、寮生に混じってストームや飲み会に参加し、日本酒をいやと言うほど飲まされ、それ以来日本酒が飲めなくなっていたのだった。今は逆に専ら日本酒で、ウィスキーが飲めなくなった。胃が弱っているだけかも知れないが。

 肝臓は20歳を境に徐々に機能が低下して行く、と昔先輩に聞いたことがあるが、全くその通りで、今の私は高校時代よりも飲めなくなっている。昔、ビール園で4、5l飲んでベロベロに酔ったことがあるが、今はそんなに飲めないし、体がストップをかけてしまう。その時、家の場所を思い出せなくなって、通りがかりの人に「つかぬ事をお尋ねします。私の家はどこでしょう?」。1年生の頃のこと。

 1時間目の授業に出るために酒を活用し始めたのは、1年生の後期からだった。それまでは、いい気分になるためだけに酒を飲んでおり、酔ったらすぐ寝てしまった。そのため、午後7時くらいに寝付いて深夜に起き出し朝7時くらいにまた眠る、といった生活をして授業をサボっていた。いや、出なくちゃいけないと思うのだが、睡眠欲に抗うことなどできず、仲良く握手をしてしまった。

 そんなんで必修の英語Uを落として、全体で13単位しか取れなかったことに危機感を覚え、睡眠薬としての酒を活用し始めたが、そのため飲む量が増え始め、いつしかビールではなくワインや日本酒を飲むようになっていた。毎日飲んでいるのだから肝臓が休まる暇が無い。飲みたくなくても眠らなければならないから、無理して流し込んだ日もあった。そんなんだから季節の変わり目には大抵体調を崩していた。

 酒を抜き始めたのは3年の後期に炊飯器を買ってからで、それも橋本先生に半年間延々と言われ続けてのことだった。今でこそまともに食事をするようになったが、それまでは鍋なし釜なしヤカンなしフライパンなし電子レンジなしの、ナイナイ尽くし。外食などは滅多にせず、一日一食、しかもそれも酒と肴であった。肴もまた偏っていて、バランスなどは、これっぱかりも考えていたとは思えない。「食べたいときに食べたいものを食べる」が、私の栄養学の根本だった。

 食べる食べ方も私は偏っている。米を一日に四合炊くが、それを一食で平らげる。加減を知らない。加減を知らないんじゃなくて、単に不精者なのだ。一々皿を洗うのは面倒だし、何度も火を使うのも時間が掛かる。掃除もそうで、「汚れたな」と思うまでやらない。一々細々とやるのは面倒だからである。そして、一事が万事、全部それだった。

 不精者で天邪鬼なんていうのは、決して誉められたものじゃない。

 

5、橋本ゼミの思い出

 実は、「ゼミの思い出」と言えるほどのものは、あまりない。「みんなで何かする」ということ自体が、ほとんどなかったためであった。実際、興味の方向性のベクトルがまったく違う人間と話をしているのは無意味だと思っていたし、事実そうだった。やはり一番楽しかったのは、先生と話をしている時間であったし、勉強にもなった。

 何かした、というのは後輩たちが入ってきたときからで、しかし午後四時半からは宗教学の勉強会に出席していたため、彼らとも顔を合わせて話をする機会はほとんどなかった。火曜日の自主ゼミの時間も、私は櫻井ゼミに出ていたため、滅多に参加することはなかった。まともに話をしたのは、ジンパのときが最初だったように思う。

どちらかと言えば、宗教学関連の方が、「何かする」は多かった。佐々木先生は知り合いであったし、勉強会を通じて知り合いも数多くできていた。何より、そこには私と興味関心のベクトルを同じくする人たちがいて、しかも男性が多く、リラックスして話ができ、落ち着ける場所だった。余計な気遣いをしなくても済んだのは、非常にありがたかった。その意味では、湊谷氏が帰国するまでは、橋本ゼミは私にとって相対に居心地のいい場所ではなかった。

全体で何かをした最初で最後の出来事は、ゼミ合宿だった。オープンユニバーシティーもあったし、入って最初の年には美術館や森林公園へ行ったりもしたが、全体で何かをしたという印象はかなり薄い。個人として楽しかった、というのはある。うっかり木の上に登って降りられなくなったこともあった。だが、立川談志の句、「秋深し となりはとなり オレはオレ」、を地で行っていたに過ぎない。

橋本ゼミにいて、個人的に楽しかったことは結構ある。曰く、個人発表であり、オフィスアワーであった。先生にも色々と心配をかけた。体力作りであり、生活スタイルの改善であり、これから先の展望であり、とにかく小言を貰い続けた二年間だった。出された課題に、「何の役に立つのか」と思ったり、「彼女作って料理を作ってもらいなさい」という小言に閉口したこともあった。それらは、昔の滅茶苦茶な生活をかなり変える契機になっていることは間違いのない事実で、むしろ良い思い出である。でも、それはどちらかと言えば橋本先生についてであって、ゼミとはあまり関係のないのものだった。

 

6、2月7日

私は今、経済学部のパソコン室でこれを打ち込んでいる。

教養時代の二年間、および学部での生活の総括は、一通り書き終えた。けれど、現在進行形の生活については書いていない。現在の我が家には、きちんと椅子と机があるし、フライパン等の調理器具も揃っている。晩酌をするのも、回数が大分減った。卒論執筆中は、一週間に一辺程度で、時にはまったく飲まない日もあった。

そうした改善された生活、そしてこのゼミで得た何物かが、今後どう評価されるのかは分からない。だから、総括の括りの外においておく。修士を出る頃に、それらは改めて見直されるに違いない。私の、ある意味での「大学四年間」は、これから後半を迎えるからだ。だからと言って、この二年間が無駄だった、ということではない。知識量のプールを増やした二年間であり、「生き方」の志向性・方向性は既に決まっていた、ということを言っているだけなのである。

今、私が痛感しているのは、大学が生き方を思索する場所であり、そこでのすべき学問は、己の関心に従ってやるべきだ、ということである。そして、「己の関心」に沿った形で学部を選択できれば、それに越したことはない。受験する時点での学部を決定してしまうのは、弊害がある。文系は、全員二年間教養で受講してその後で割り振りし、さらに学部を二年間延長して、文系は6年制にした方がいい。

そんな愚痴は、言い始めたらキリがないので止めるが…

ともかくも、私の学生生活はまだ続いて行く。そして、23年間なら23年間での、30年間なら30年間での、自分の人生の中での一つのストーリーを語るだろう。それは、その時点では「私」にとっての事実であり真実である。明日もし、このまとめの部分をもう一度書くならば、まったく別のことを書いているかもしれない。けれども、それはそれで「事実」である。だから、これは2005年2月7日の時点での「四年間を振り返った」文章に過ぎない。

ある時点で良いことが、別の時点でも良いことであるとは限らないのだから。

 

 

 

 

湊谷周平 大学生活を振り返って

 

 大学入学時、基礎クラスでは仮総代をつとめ、部活動では以前から興味のあった合気道を始めた。大学の基礎クラスは、よほど仲が良くない限りは学校祭までと言われていたが、まさにそのとおりだった。できる限りクラスを盛り上げようとしたが、学校祭の準備期間中にいくつかのトラブルがあり、お互いを中傷しあうようになり、メンバーが分割化されたのである。そのころから、僕も部活に傾倒するようになった。

 北海道大学には合気道部が2つあり、試合がある合気道とない合気道の2種類である。僕自身にあまり闘争心が無く、前者の合気道が白い袴を着用ということもあって、試合のない合気道部に入部した。校則が厳しくてお洒落を我慢していた高校時代の終焉とともに、金髪・ピアスという現代の若者に変身していた僕は、入部した合気道部ではかなり場違いな格好であった。

 合気道部に入部してからは、生活が一気に忙しくなった。稽古が週4日、月曜日に授業のない場合は週5日の稽古であったからだ。その頃、大学の授業のシステムがわからなくて、最大25コマ中23コマ授業を受けていた僕は、朝8時45分から夜6時00分まで大学の授業をうけ、その後6時30分から9時00分まで部活という日がほぼ毎日続いたからである。23コマある授業も、面白くない授業は途中から見限ってしまえば良かったのだが、くだらない高校の授業に比べると、比較的面白かったため、結局ほとんど全部に出席していた。これは前期・後期と一年を通じて行われたため、気がついたら大学1年で70単位を取得していた。

 こんなに単位をとっても、面白い授業というのはそのうち一割程度で、大講堂に押し込められて受ける授業より、少人数で話し合いながら行われる授業であった。特に印象に残っているのは、経済学部の高井先生のわかりやすい経済学、教育学部の椎名先生のホームレスインタビュー、法学部の稗貫先生の3人しか集まらなかった独占禁止法講座、また例外ではあるが大きな教室で行われた文学部の伊藤直哉先生のオタク論であった。

 さらに1年生の後期からは、授業をアルバイトとして塾講師を始めたため、さらに自分の時間というものがほとんどなかった。しかし、それでも充実していたように今では思える。

 大学2年生に進級してからは、この生活が180度変化してしまった。それというのも、経済学部はヒマ経と言われるように、2年生で取れる授業の数が極端に少なく、一日に2コマから3コマ授業しか開講されていないのである。めいっぱい授業を受けたとしても、今までの半分の授業数なのである。授業数がないと不安になるもので、自主的に勉強しなくてはいけないという強迫観念から、ビジネスマン必読の週刊ダイヤモンドを毎週購読するようになる。

 アルバイトの方も5月に行われた新歓コンパで、下ネタばかりの下品な雰囲気に嫌気がさして6月にはやめていたため、さらに時間に余裕ができる一方であった。こうしてできた時間は部活へとシフトしていき、週4日だった稽古が週5日と、合気道へますます熱中するようになった。

 ゼミの専攻は、週刊ダイヤモンドの影響で経営系を志望し、会計の吉見ゼミへの内定が決まった。実際に経済学部で履修した授業は、1教科を除いて全て単位を取得し、その落とした1教科も友達に前日にノートを貸して帰ってこなかったため勉強できなかった教科であった。

 「これで、進級を待つのみ!」と思ったときに、3月に学部の教務から電話がかかり、突然「留年しましたから」という通知。寝耳に水であったため、しばらくあっけにとられていたのだが、よく聞くと必修の英語の単位を落としていたために、留年というのだ。「必修でも再履修ができるのでは?」と思っていたのだが、どうやら2年の英語は留年してもう一度受けなくてはならないらしかった。経済学部なのに英語>経済というのであるから、この理解不能のシステムに愕然とした。再試を行ってくれと英語の先生に嘆願しても、「それでは他の人にも試験を受けるように呼びかけなくてはならないからダメだ」と全く相手にされず、絶望し、酒に逃げるようになる。

 こうして2回目の大学2年生が始まったのだが、いかんせん2年生が受けられる経済の授業は全て取り終わっているため、大学1年間をかけて英語1単位しか受けられないので、前期は休学せざるを得なかった。

もともと英語は得意ではなかったため、両親が僕の英語能力を心配して、英会話学校に行かせてくれた。ただし会話を重視するこの英会話学校では会話力は多少つくが、根本的な英語力はつかなかった。そこで英語の先生をうまくつかまえて、できるだけ会話をする機会をつくること試みた。幸運なことにこの英会話学校の先生が、アメリカから合気道をやるために日本にやってきており、彼と友達になることができた。英会話学校は時間が不規則のために、午前中しか合気道の稽古ができない彼のために、朝練を提案し、二人で毎朝稽古をした。彼は僕から合気道を、僕は彼から英語を、というようにお互い学び合うことができた。こうして僕の合気道は週5の稽古に朝練が新たに加わったのである。

後期になって大学に復学したときには、身に付いた英語は合気道を説明するための特殊な英語であった。もう少しまともな英語を身につけたいと思い、必修の英語の他に、経済学部の外国書講読という授業を受けた。これが橋本先生との出会いであった。大量の新聞を印刷してきて翻訳するという授業なのだが、たいへんな授業を楽しそうにやる橋本先生の魅力に惹かれ、去年うけた吉見ゼミを辞退して、橋本ゼミへ申し込むことにした。また同時に、せっかく身に付いた英語を無駄にしたくないという気持ちから、学部がもっている留学枠に応募した。

必修の英語は先生の善意であろうか、なんとかパスすることができ、さらにスウェーデンのヨーテボリ大学への留学も決定した。留学は2学期からであったため、できるだけ大学で単位を取得して、留学生活が大学の授業で縛られないようにした。しかし橋本ゼミは「学生=ヒマ→勉強させるべき」というコンセプトの上に成り立っていたため、宿題の量が非常に多く、他の授業に出席しながらも先生の目を盗んでゼミの宿題をしなくてはならなかった。当時は「先生、これはやりすぎだよ…」などと内心弱音を吐いていたが、しかし今となってはあの苦行があったからこそ多少の宿題には動じなくなったと、感謝している。

とはいえ、半年間で精神的にまいってしまったため、橋本ゼミを離れてヨーテボリ大学へ留学したときは、開放感いっぱいで留学生活を楽しんだのである。そのため留学中はキャリアアップを目指すというより、日本でできなかった「ゆとりライフ」を満喫した。これは公園の散歩に始まり、レストランの食べ歩き、パーティーなどさまざまであった。特に日本でギャンブルをしたことがなかったのだが、スウェーデンでカジノに行ってルーレットやスロットを経験でき、タバコも日本では吸ったことはなかったのだが、オランダに旅行へと行ったときになんらかの葉っぱの巻紙を吸った経験はいまでも覚えている。(たばこの吸い方すら知らない僕にとって、これはただまずいだけの代物で、3.5ユーロは痛い出費であった。)

とりわけ、学校をサボって日本語学校に参加したら、たくさん友達ができた。これは単位を犠牲にした価値があると思う。いまでもスウェーデン人の友達が僕の家に訪ねてきたり、メールを送ってきてくれたり、一緒に店を始めないかとまで言ってくれている。

のびのびライフをスウェーデンで送ってしまったため、案の定帰国してからは予定に忙殺されてしまった。就職活動のために早めの6月に帰国したのだが、この時期は新卒募集が多くの企業で締め切られていた。合同企業説明会に参加しても、パチンコ屋や飲食業など、人気のない職業が残っており、もう会社などを選択する余地などはなかった。しかし何気なく参加した某メーカーの会社説明会は、非常にフレンドリーな空気で、「交通費を支給するから工場見学に来ないか?」と誘われた。もちろん名前などは聞いたこともないメーカーだったのだが、とりあえず見学に行くと製品が文系の僕にとっても興味深く、魅力的だったので内定をもらった時は、即受諾した。

こうして短期で就職活動を終えたため、早々とリゾートホテルへ行ってアルバイトを行い、不足していた資金を貯めてアフリカへ行くことにした。大学生活最後の夏休みということで、かねてから高井先生に勧められていたアフリカ南部を旅行することにした。計画を立てるのが苦手なので、バックパックと地球の歩き方、それと飛行機のチケットだけもって、南アフリカ共和国へと旅だった。運が良かったのは、初日に予約していた宿が日本人宿(日本人がよく集まる宿)で、そこで旅のパートナーを見つけて旅をすることができた。彼らは旅のエキスパートと呼ぶにふさわしく、一人は南米を1年ほどかけて南下してきており、もう一人は世界1周チケットで世界中を飛び回っているのであった。ヨーロッパ諸国を3,4週間しか旅したことのない僕にとっては非常に頼もしい存在であった。そんな彼らと一緒に、ナミビアで砂漠(砂丘?)を見たり、ジンバブエでビクトリアの滝からバンジージャンプをしたりと楽しい旅行ができた。ただし、途中彼らと別行動をとって、一人で列車を使い山へトレッキングへと出かけたときに、駅改札付近でスリに狙われそうになったり、山では遭難しかけたりと、一人の無力さを痛切に感じた。

旅行から帰ってきて、北海道大学に復学。あまりにも楽しい時間を過ごしすぎていたため、当初は大学の授業やゼミの宿題が億劫に感じられて大変だった。しかし何とか卒業論文を書き上げることが何とかできた。合気道も時間の合間をつかって、稽古に励んでいる。

振り返ると、あまりまじめな学生生活ではなかったが、充実していたなと感じる今日この頃である。

 

 

 

 

松井英里奈 大学生活を振り返って

 

 気が付けば大学生活も残すところあとわずか。十八歳で入学した頃がつい最近のことのように思えるのに、あれから四年も経ったなんて、月日の過ぎるのは早いものである。いや、年を重ねるごとに時が経つのが早くなると実感するようになったと言った方がよいのかもしれない。とにかく、私にとって大学四年間はあっという間だった。

 最初に言ってしまうと、この四年間には後悔がたくさん残っている。それは私の大学生活が「濃密な」ものではなく、どちらかというとただ無為にだらだらと過ぎ去ったように感じられるからであり、大学時代というもっとも時間の豊富な時期を有効に活用できなかったことへの後悔である。まだ社会にでていない私が言うのは早すぎるかもしれないが、大学時代というのは、人生でもっとも時間に余裕がある時期であることは、ほぼ間違いないように思われる。

実際のところ日本の多くの大学では、出席もレポートも甘く、大して頑張らなくても単位がもらえてしまうので、よほどさぼっていなければ進級も卒業もできる。したがって、一般的な大学生の多くは、特に教養課程の一、二年生の間、勉強なんてほとんどせずに、サークルやバイトや部活に遊びに、勉強以外のことをして「大学生活」を楽しんでいるのである。(もちろん、一生懸命勉強しなければ単位取得も進級もできない大学もあるだろうし、そうでなくても真面目に勉強している学生もいるだろうが、少なくとも私の大学の私の学部においては、勉学にもっとも力を注いでいる学生はあまりいなかった。)これは、世間が持っている大学生のイメージとそう変わらないように思う。もともと勉強があまり好きではなかった私はもちろん、このころ勉強した記憶はほとんどない。それでも、友達に会うために毎日学校には通っていて、そのおかげで、単位ぎりぎりではなく余裕を持って進級することができた。もっと真面目にやって成績優秀だった人もいたし、ほんとにぎりぎりだった人もいた。私は平均的な学生だったと思う。

一応旧帝国大学の有名大学でさえこんなだから、日本の大学は教育水準が低いと言われている。近年、大学生の学力低下が報告され、企業の大学教育に対する満足度は主要国の中で最下位だという。たしかに、実際に大学に入ってみて想像以上に楽だと感じたし、はっきり言って大学を四年もかけて通って「大学」から得たものはあまりに少ない気がする。特に教養課程の時に学んだことは、殆どまったく役に立たず、そもそも何を習ったのかすら覚えていない。

大学生活も後半にさしかかって、将来のことを考え始めたときに、私は教養時代の自分の無勉強さを非常に後悔し、簡単に単位を取らせるような大学のシステムに不満を感じた。しかし、一番責めるべきなのは自分自身であることに、最近漸く気付いたのである。私は何でも他人任せで、自分から考えようとはせず、やらされることだけやってきた。高校時代までは、進学するために受験勉強さえしていればよかった。先のことはあまり考えず、「とりあえず」勉強して大学に入ることしか考えていなかったので、大学に入って目標がなくなってしまった途端、何をすればよいか分からなくなってしまったのだ。高校時代に進路を決めるときには、将来何をしたいかが見つからず、何となく地元の大学を選んで、大学に入ってからそれを見つけようと思っていた。しかし大学に入学してからは、周りに流されてただ日々の生活を送るだけで、将来について考えることなど忘れてしまっていた。「先のことはまだ考えなくてもいい」と考えるのを先延ばしにして、結局、就職活動の時期になるまで何も考えずに過ごしてしまい、ひどく悩まされた。それまでの人生、とにかく考えるのを先送りにしていたつけがまわったのだ。

そうはいっても、楽しいこともたくさんあったし、あまり多くはないけれどそれまでにない体験もした。例えば、生まれて初めてアルバイトをしたことは、お金を稼ぐことの大変さを身にしみて感じたという点で、私の中では重大な経験だった。それまで五百円や千円、少額だと思って気軽に使っていたが、私たち学生バイトの時給では千円稼ぐためには一時間以上働かなければならない。慣れればそんなに辛くはないアルバイトだが、とにかく行くのが面倒くさい。学校が終わって早く帰りたい日でも行かなければならない。多少具合が悪くても、機嫌が悪くても、寝不足でも、二日酔いでも、簡単に休んだり遅刻をするわけには行かないのだ。それでも週三日程度の学生バイトなんて気楽なものだ。社会に出て責任を持たされて働いている人たちは、なんて大変なのだろうと、自分がその苦労のほんの一部でも味わうこと、改めて親の有難みが分かったのである。

私が初めてしたアルバイトは個別指導塾の講師だった。小学生から中学生くらいまでの子を一人で二、三人受け持っていわば家庭教師のように勉強をみるというもので、講師は殆どが大学生。後で気付いたことだが結構楽な上に時給もよく、私の大学でも同じアルバイトをしている学生はかなり多かったようだが、教えるのがあまり上手くなく、小さいころから教師にだけはなりたくないと思っていたような私は、気分的にいまいち馴染めない仕事で、四ヶ月くらいで辞めてしまった。わりと長く続けたのは、ファースト・フード店でのアルバイトだ。接客業は結構楽しかったし、バイト先にはいろいろな人がいて、それまで同じ学校で同じ境遇の人間しか知らなかった私にとって、別の世界を少しだけ知るいい機会となったと思う。

ところで、私は大学1年の冬に普通自動車の免許を取った。大学時代は自動車免許を取るのにもっとも適している。時間は有り余るほどあり、免許を取得した後に練習する時間もたっぷりあるからだ。また免許は一度取ってしまえば一生ものなので、大学に入ったらできるだけ早い時期に免許を取っておいて損はないと思う。北海道は車がないと生活に不便な土地なので、女性でも18歳になると皆こぞって免許を取りに自動車学校へ通う。私自身は、特に免許が欲しかったと言う訳でもなく、親に勧められて取りに行ったのだが、実際に免許を取って車を運転するようになると、一人でどこにでも行けるようになって、かなり世界が広がった気がした。今では妹の送り迎えをしたり、車で遠出をしたりしているけれど、四年前の高校生の頃の私にとっては、車を自由に乗り回すなんて大人のすることだった。あの頃憧れていた大人の行動がほとんど何でもできるようになっていて、何も変わっていないように思えても、四年の間にどんどん大人に近づいてきたということを感じる。

二度の海外旅行も、貴重な体験である。大学生になって初めて、パスポートを作り海外の生活というものを体感した。とはいっても私の場合、ロサンゼルスとオーストラリアのケアンズと、どちらも観光地であり、現地の文化にじかに触れて人間的に成長するような旅というわけでもなかったのだが、それでも異国の風土はとても新鮮で、月並みだが想像していた以上にカルチャーショックを受けた。そして一番落ち込んだのは、自分があまりに英語がしゃべられないことだ。小・中・高と英語を習ってきて、少しくらいの読み書きならできると思っていたのに、いざ自分から喋ろうとすると本当に簡単な単語すら出てこないのである。いまや英語は世界共通語なので、英語圏の国でまともに英語を話すことができないのは非常に恥ずかしい。日本では、外国人が日本語を話すことができなくても、日本人はそれを当たり前だと捉えるし、外国人のほうも平気で英語で話しかけてくる。むしろ日本人のほうこそ英語で答えられないことを恥じているくらいだ。しかし英語圏の国では、こちらが英語を話せなければそれ以上コミュニケーションすることはできない。海外旅行から帰ってきたときほど、英語をもっと勉強しようと思うときはない。(もっとも、実際に喋る機会がなければなかなか話せるようにはならないだろう。一緒に旅行に行った私の友人は、英会話学校に通っていたおかげで、何もしていない私よりは大分上手く英会話をすることができていた。)

このように、大学一、二年生の教養課程の間は、アルバイトや遊びや海外旅行をして少しも勉強せず、このまま勉強はしないで大学を卒業するのだろうと考えていた大学三年のはじめ、いよいよ学部のゼミが始まった。大学三年以降の学生生活に多大な影響を与えるゼミ選びは、とても慎重に行わなければならなかった。学部によっては半年ごとにゼミが変わるところもあるが、基本的に二年間同じゼミに所属し、ゼミ以外の授業もあまり多くない経済学部では、どのゼミに入るかでその後の学生生活を左右されると言っても過言ではない。ゼミ選びをする二年生たちは、いろいろな噂やゼミ見学を頼りに自分の入りたいゼミを決めるのだが、私はこの時、ほとんど情報のない橋本先生のゼミを選んでしまった。先生はニューヨークから帰ってきたばかりで、今までに授業を受けたこともなく、ゼミ見学もなく、先輩もいないゼミに、ただ面白そうだという理由で入ってしまった。橋本先生一人のゼミ説明会の日、「僕のゼミでは何でも好きなことを研究していいよ」と言われ、もともと経済学に嫌気がさしていた私は、すぐに橋本先生のゼミを第一希望にした。

しかしゼミが始まってみると、かなり大変な思いをした。最初に読まされたのは『貨幣の哲学』という矢鱈難解で分厚い本。一ページ読むのに三十分かかって、それでも半分も理解できない内容を予習するために、私の生活は一変した。ゼミの勉強に追われ、毎日真剣に机に向かうようになったのだ。ただし、それまでにしてきた受験勉強や試験勉強とは違って、暗記や問題の解き方を練習するのではなく、本を読んで理解することが主だったので、しだいにそこに楽しさを見出すようになった。私はこの頃初めて、学問の純粋な楽しさと喜びを、ほんの少しでも知るようになったのだと思う。先生がとにかく本を読むようにすすめてくれたおかげで、しばらく遠ざかっていた読書にもまた親しむようになった。小学校の頃までは本が好きだったのに、学校の勉強やそれ以外の娯楽に流されているうちに、本を読まなくなっていた。今は、本を読むことが人間の知的発展にどれほど貢献しているかを強く感じて、どうしてもっと本を読んでこなかったのかと残念に思っている。

大学生活は本当にあっという間だ。苦労したゼミも、一年も経たないうちに就職活動が始まって、ただ勉強に打ち込むことはできなくなる。せっかく勉強を始めたと思ったらすぐに将来の選択を迫られ、それまで何も考えてこなかった私はひどく悩まされることになった。私は考えた末、大学院の道を選んだが、結局自分のした選択が正しかったのかどうかは確信を持てずにいる。今もよく一人で思い悩むことがある。しかしそんな風に悩むようになっただけでも進歩ではないだろうか。私は最初に、私の大学生活は濃密でないがゆえに後悔がたくさん残ると言った。たしかに実際にいろいろなことをしたというわけではないけれど、大学時代は今までの人生で一番、真剣に考えたり悩んだりしたことは間違いない。

 

 

 

 

高井彩 大学生活をふりかえって

 

 大学生活を振り返る前に、経済学部入学後に思っていた「経済学や経済学部に対する不安」について思い返すことにする。当時は、理系というものに何らかのアカデミックさを感じていたということに加えて、資格という安定材料が欲しくてしょうがなかった。どうも、文系というものには、自分で研究を進めていく要素が、不足しているのではないか、あるいは、文献を読んで、他者の考えの模倣するにすぎないのではないかという思いがあった。北大経済学部の先生のなかにも、大学院に進む際に、経済学というものに、私と同様の不安を感じたことがあるとおっしゃっていた先生がいたことからしても、この懸念は、多くの経済学部生(文系学部生)が持ったことがあるのではないだろうか。経済学を卒業したら何になれるのかと考えると、余計に、経済学部以外の学部に興味を持ち始めていた。

高校時代の友人は医学部、歯学部の者が多く、兄弟も農学部だったことから、彼らの朝から晩まで実験や実習に打ち込む生活に対して憧れていたということもあるだろう。最近では、忘れていたが、経済学部生は「犬よりも暇」「ミジンコより暇」などというレッテルを貼られている。教養から、学部の授業に変わったら、何か変化があるかもしれないなどと期待していたら、学部の授業でも、「知的好奇心」なるものを一時間連発して授業をする教授の授業をとったあたりから、経済学に幻滅することもあった。このまま、経済学部にいても何も身につかないのではないか。自分の大学生活とは何だと、真剣に悩んでいたものである。

しかし、兄や友人の話を聞く限り、たとえ理系学部に在籍していたとしても、研究や勉強が必ず将来に結びつくとは限らないということが次第にわかってきた。理系には理系の悩みがあり、「教授のための実験」というものも存在するということである。社会人ではなくとも、教授に協力する姿勢、いってしまえば、「上司に対するゴマすり」のようなものも学生のうちから自然に身に着けざるをえないということである。そんなことは、社会人になってからで十分だと感じ、気持ちを切り替えるようになった。

このようなことからして、大学とは、世の中には役にたたなくとも、自分の興味関心が沸く材料に対して、何らかの取り組みを稚拙ながらも取り組むことに意義があるのではないかと考え始めた。

 次に、大学卒業を控えて、最近考えていることを書きたいと思う。それは、大学時代の友人とは何かということである。二年生の時、友人(だと思っていた)の親の夜逃げ騒動に巻き込まれ、急にその家の犬を我が家で飼うことになった。「明日、連れていくから」と電話で言われ、「明日、その時間は授業なんだけど」と答えた記憶があるのだが、向こうの勢いに押され、次の日の昼には、庭に大きな犬がいた。柴犬とシェパードのミックスということだったが、どう見ても、九割方、シェパードの血が入っているという体格だった。私の前に登場した瞬間に、脱走したので、血の気が引いた。探して探して、やっと見つけた。翌朝には、朝、五時から遠吠えが始まった。どうなだめても無駄である。どうやら、散歩に行きたいらしい。我が家の柴犬は、一緒に散歩したくないということなので、学校に行く前に、一匹ずつ散歩させるという手段をとらざるをえなかった。何時に起きなければならないかと途方に暮れていたが、両親が助け舟を出してくれた。両親は二人とも、時間にほとんど余裕の無い人たちである。特に、当時、父はほとんど余裕のない時だったにもかかわらず、世話を手伝ってくれた。脱走癖のある犬だったので、雨のなか、父と一緒に、恥を忘れて大声で探しまわり、どうしても見つけられずに、あきらめて家に帰ったら、玄関で尻尾を振って待っていた時には、本当に嬉しかった。飼われていた家で、何があったのかはわからないが、この犬は男の人を見ると、異常におびえるという特徴があったのだが、このころには、父を一番慕っていたように思う。母と、吹雪のなかで、小屋にどうしても入りたがらないので、どうしても押し込めようと、しつけをした時には、二人で、近所の人も驚くほどの怒り方をした事も思い出深い。

 しかし、家族みんなで、犬をかわいがっている様子、犬もなついているという状況を毎日友人に報告しているうちに、友人の態度が一変した。どうやら、我が家の平和な様子、さらには、犬を盗まれたような錯覚をしたらしい。連れてきたときと同様に、「明日、連れて帰るから」という電話に対して、「その時間はバイトなんだけど」という返事も聞かず、私のいない間に犬を連れて行ってしまった。犬は嫌がり、どうしても車に乗らずに、最後は母が無理やり抱きかかえて、車に乗せたということだった。その日は休日だったので、父も家のなかにいたのだが、父いわく、朝の散歩の時にお別れしといたという理由で、その場面には出てこなかったと後で母から聞いた。

 その時から、大学生活において、友人との付き合いを深く考えるようになった。もともと、その友人とは、仲良くもしていたが、今考えれば、自分は利用し甲斐の存在だったのかもしれない。テスト前にノートを見せて欲しいと頼むような友人は、友人ではないと思うことに決めた。また、自分の性格も変えることにした。それまでは、どうしても、友人に対しては、頼まれたら嫌とは言えない性格だったと思う。それまでは、平穏無事で大学生活を送りたいと思っていたからだ。頼んだことを嫌だといって、友人関係が壊れるような友人でならば、それまでである。

 兄弟や高校時代の友人との間よく話すことだが、大学は友人と一緒に過ごす時間が中学高校時代と比べると極端に短い。また、一緒に努力して何かを乗り越えるような経験をすることもあまりない。また、県民性という言葉があるかどうかはわからないが、あるとするならば、例えば、北海道に生まれ育った自分と性格の合わない県が存在するのは事実だろう。あまり、意見の合うことのない兄と私であるが、このことについては、おかしなことに、意見が一致する。

 本当に心の許せる友人を大学時代でつくることができるのはどんな場面だろう。私自身、心の許せる友人とは、高校時代の友人、浪人時代の友人などお互いの苦労を知っている友人であると思っている。また、バイト先などで、あまり親しくなくても、本当に苦労しているなどと、がんばっている人の話を聞くと、なぜか、その人とはすぐに友人関係に発展することが多いような気がしている。例えば、韓国語を習いなじめた友人は、大学を一度中退して、別の大学に入学しなおし、まだ、大学三年生なのだが、年齢を気にせず、これから一年韓国へ留学しようと準備を進めている。このように、自己に与えれられた時間を最大限に利用して、自分なりの投資をしている友人を見ると、強い影響を受ける。

 バイトといえば、この四年間では実に多くのアルバイトをした。大学生のアルバイトと

いえば、割りの良さや楽さから、家庭教師する人が多い。それにもれず、私も一〇人近くの家庭教師をしてきた。しかし、家庭教師では、自分自身を見直すことのできる機会は限られている。教員免許も持っていない自分が「先生」と呼ばれることは、正しいのだろうかとも思う。暖かい部屋で、お茶を飲みながら、先生であるかのように振舞っていたら、自分がだめになってしまうと思い、ラジオ局、ティッシュ配り、選挙のサクラ、映画館など一風変わったアルバイトを無理やり経験したことは、良い思い出である。普段、社会人というと、自分の親、大学の事務、教授など位しか、その仕事内容に触れる機会はない。大学で働いている方々を見ていると、「働いて収入を得る」という実感は正直沸いて来ない。頭を下げて、あるいは、汗を流して働くとはどういうことなのかを自分でいろいろ体験してみたかった。

 社会人になったならば、嫌でもその思いを実感することになるのであろうが、学生のうちに少しでも免疫をつけておきたいと思いながら、アルバイトをした。

 社会人となってからは、苦しいことを経験することも出てくるだろう。そのようなことに耐えられるように自分を鍛えることが今後の課題だ。そのためには、本当の友人と、良い意味で影響しあい、さらに、時間の許すかぎり自分への投資をしていかなければと思っている。今までは、友人から、彼女らのがんばる姿を教えてもらうことのほうが多かったが、これからは、自分が、エネルギーを放出する側に回ろうと思っている。また、自己投資については、英語、韓国語、国家試験などに挑戦していきたいと考えている。旅行業はいまや、かつての勢いはない。父の会社の旅行部門も衰退の一途をたどっている。旅行業自体が勢いを失っていても、新たな方法で旅行業を作り直すというのが、今の自分の目標だ。語学についてだが、英語、韓国語ともに一対多数の授業では、モチベーションが上がらない。特に、韓国語の授業では、年配の方々が念仏のように、単語を発しているので、先生の声が聞こえなかったりもする。祖母のような年齢の方のやる気に押され、予習復習は順調だ。問題は英語の方だ。これは、自分の性格も上達を妨げていると最近思い始めている。英語はおしゃべりな人の方が上達するというのは本当だ。これは、今日から改善すべき課題だ。仕事の合間を縫って、語学の習得をめざすつもりである。

 あまり、卒業生のエッセイとしてはふさわしくない内容となってしまったが、私の今の時点での決意は書き記すことができたと思う。ここ数ヶ月は、この決意とともに、大学を離れることの寂しさが常に頭のなかにある。大学生とは特別の立場だ。絶対に経験しないと、人生を損したことになる。大学生活を経験できる環境にあったことを感謝したい。

 

 

 

 

佐々木 育子「大学生活を振り返って」

 

 先日橋本先生の研究室にお邪魔した際、この課題についての話題が出、「大学生活を振り返るといっても、2年までの記憶があまりないですね。」という私に、先生は「覚えてないんじゃなくて思い出したくないだけなんでしょ?(笑顔で)」とおっしゃいました。なんと鋭い指摘でしょうか!(あまりの鋭さに私は一瞬全身総毛だったような気がしますが、先生はそんなことなど既に覚えてないのでしょうね…)覚えてないのか思い出したくないのかについては脇に置いて、ともかく大学2年生までの私にはエッセイにできるようなネタなどないのですから、やはり、橋本先生との出会いから今日までを語るしかないのです。

 

 私が橋本先生に出会ったのは、大学3年次の春でありました。それまでの私の生活はというと、経済学にまったく興味を持つことの出来ない、典型的にステューデント・アパシー状態の大学生でした。とはいうものの、個人的な人間関係においてある種の大きな解放を経験した矢先でもあった為、その頃の私の心境は非常に開かれた状態であったことも確かであり、その時期に橋本先生の講義「経済思想」を受講したことはまるで運命としか言いようがないと、これを書いている今の今でも思っています。その講義は非常に刺激的で、日頃あれこれと考えていたことを学問として学ぶことが出来る!という発見と喜びを感じさせてくれましたし、またその出来事は、それまでの私には決してあり得ないような行動力を発揮させました。期末レポートのご指導を通して橋本先生と親しくなった私は、最終的にその行動力の矛先を橋本ゼミへの「転ゼミ」へと向けたのです。皆さんもご存知のとおり、大学3年次前期といえば既にゼミナール(ゼミ)が始まっており、当然のことながら私もとあるゼミに所属していました。しかしゼミの選択は大学2年次に行われるため、学問的興味など何も無いままに決定をしてしまっているわけですから、今や他の分野で学びたいことを見つけてしまった私がそのゼミに出席するということは、ひどくもどかしいものでした。橋本先生が私の転ゼミを快く受け入れてくださったこともあり、夏休みには意志固く旧指導教官に転ゼミの旨を伝えることが出来、晴れて3年次後期から橋本ゼミに正式所属することが決定したのでありました。転ゼミをすると心に決めながらもそれを打ち明けないまま旧ゼミの夏合宿に参加したことは、今でも印象深く思い出されます。複雑な心境でした。学びたいことが出来たのだから、と転ゼミを認めてくださった旧指導教官、面倒であろう手続きをしてくださった事務の方々には心から感謝しています。

 

 橋本ゼミに所属してからの私の生活は、文字通り一変したとしか言いようがありません。当時のテキストの難解さ、毎日の新聞スクラップ、尋常ではない課題の量、本ゼミの後に行われる英語講義、個人発表研究等など。それまで率先して楽な道を進んできた私にとって地獄そのものの毎日でした。3年次の頃は何度ゼミをサボろうと考えたことか…(しかしながら橋本ゼミには空恐ろしい伝説が残っていて、そのせいか() 結局ゼミをサボることは海外旅行の時以外にはただの一度もありませんでした)。日々の講義とアルバイト、そしてこの鬼の橋本課題をこなすのは非常に苦しく、夜な夜な泣きながらパソコンの前に座っていたことを思い出します。「あの頃のいくちゃん(自分)は『夫婦茶碗』(註参照)読んでクスクス笑っては、泣きながら課題やってたんだよねー」とは最近になってとある友人の談。そうです、笑わなきゃやってられなかったのですよ。

 サブゼミ課題に関しては後輩たちも非常に悩まされているところだとは思いますが、一見学問とは無縁に思われがちな課題たちも、一渡り終えてみれば非常に意味のあることなのです。私は決して課題を完璧にこなす優等生ではありませんでしたが、一つ一つの内容の濃さには気を使っていました。サブゼミ課題を通して得ることを一概に述べるのは難しいことです、人それぞれだと思います。スクラップぐせや時事ネタに精通するなどいろいろ挙げられるでしょう。私の場合はとにかく以前よりも根性がつきました、重要なことです。とにかくこのめまぐるしい生活に慣れるまではかなりの時間を要しましたが、慢性の寝不足で常に朦朧とした意識は、実のところ少し気持ちよかったです。(私は旧橋本ゼミ官M部嬢とは異なり、決してマゾヒストではありませんが…。)

(註/町田康『夫婦茶碗』新潮文庫 参考までに一節を紹介「家のドアーの前に立ち、わたしは考えた。いま、わたしがドアーを開け、ただいま、と唱えるのはたやすいことである。事実、いままでわたしはそう言ってきた。しかし、それではうるおいに欠ける。しみじみとした情感、人間的な情緒を欠くのである。そこでわたしはドアーをあけ、大声で『ただ山今夫』と怒鳴った。げらげらげら。ただいま。といえば味もそっけもない帰宅の文言を人名になぞらえ、ただ山今夫。あっはっはっはっ。うるおいがある。これだよ、これ。我が家にはこれが欠けていたのだ。なるほど。と、玄関でひとりで喜んでいたのであるが、そのうち、うるおいはなくなった。なんとなれば、うるおいは独力で達成される類の情緒・情感ではない。人の間と書いて人間。誰かこれを共有するものがいなければ、人間的とは言えぬのである。この場合で言えば、間髪をいれず、厳寒に出迎えた妻が、まじめな顔で『丘エリ子』と言うべきで、妻がそういった後、約二秒沈黙が続き、突如爆笑、…66-67p

 こんな笑いに支えられ、何とか乗り切ってきた次第であります。こんな笑いといいながら、実は適確な人間描写ではないですか。かのアダム・スミスも代表的著作『道徳感情論』において、「同席者の笑いやさざめきは活気をつけるし、彼らの沈黙は疑いもなく、我々を失望させる。…同感は、歓喜を活気づけ、悲嘆を軽減する。それは満足の別の源泉を提示することによって、喚起を活気付け、それは、心の中にそのときその心が受容しうる殆ど唯一の感動をしみこませることによって、悲嘆を軽減するのである。」と述べているくらいなのですから。)

 

 橋本ゼミに入ってもう一つ一変したことといえば、人間関係です。(ゼミ生で言うと特にK氏とM嬢とは何かと三人で活動することが多く、紆余曲折を経ながらも奇妙なつながりが生まれたと思っているのは私だけでしょうか?そしてM田さんやY本さん(大学院生)、M部嬢の「いつものメンツ」が集まってやっていた意外に真面目な勉強会、そしてその後につづくグズグズな飲み会は非常に懐かしく感じられます。Y本さん、日本を離れてもお達者で!!)私は橋本ゼミに入った頃から大学院進学を決めていたのですが、この人間関係は大学院進学に伴う試験勉強・個人研究にとって最大のメリットの一つでした。大学院に進学を予定している各ゼミ生の研究分野はてんでバラバラでしたが、勉強をしている人間が回りにたくさんいるという事実はそれだけで非常に有利と言えます(特に私のような環境に左右されやすい人間にとってはなおのこと)。メーリングリストで勉強の成果を流すという橋本ゼミ特有のシステムは、大学院試前の夏休みや卒論前の冬休みといった講義がなくたるみがちな時期には特に効果的でした。そういったことを考えると、とにかく周囲の環境に恵まれた1年半だったと思います。橋本ゼミに入るまで大学での友人が殆どいなかった私にとって、積極的に周囲とコミュニケーションを取ったり、一度に多くの人間関係を持ったりすることは煩わしいと悩まされる時期もありましたが、重複した人間関係を持つということが実は非常に大切なことだと痛感しました。昔からの友人、勉強仲間やゼミ生、アルバイト先の友達、それから家族ももちろんそうですし、指導教官の方々との関係もそうです。勉強・将来・趣味のこと全てを気兼ねなく話すことのできる友人というのはそれこそ一人二人でしょうが、どの人間関係も今となっては不可欠なものです。たとえば講義やゼミの課題に追われ、気がめいったりイライラしている時期には、大学とは全く別の人間関係があったことは精神的に救われましたし、それがなければ早々に挫折していたに違いありません。一人が一番良いからと周囲をけん制していた過去の自分に比べると、少し大人になれたかなぁと思います。

 

 さらに橋本ゼミといえば、海外旅行が奨励されているのはとても有名な話です(他のゼミ生も知っているくらいですから)。私は橋本ゼミに入るまで海外旅行に行ったことがなかったのですが、先生の影響を受け大学3年の夏休みにフランス・パリに行ったことは、それがたった10日たらずの日程であっても人生最大の衝撃事件です。初めての海外で一人旅となると、それを言い出したときは家族も心配(というか驚愕)していましたし、私自身とても緊張しました。しかし行ってしまえばもう怖いものなど何もない!何もかもが新鮮で刺激的なパリの街と一人旅の気ままさが病みつきになり、結局4年次の秋には(ゼミを欠席してまで)再度パリに渡ったのでありました。橋本ゼミに参加しなければ、大学生のうちにパリに行くこともなかったでしょう。勉強もせず、旅行の楽しさも知らず、あのままぐずぐずと伸びきった人生を送っていたかもしれない自分など想像するだに恐ろしい!!目上の方のアドバイスというのは聞いておくものです、本当に…。

                                                                              

 今ざっぱに振り返っただけでも、先生の数々の名言やゼミ生との仕方のないエピソードがふつふつとわいてきます。(それはもう課題エッセイに書ける内容ではないものも多数ですね、M部嬢!)それだけ濃い内容の大学生活を送ることが出来たということですし、そういった経験を期待すべくもなかった過去の自分を鑑みてみても本当にうれしく思います。とはいえ私は大学院へ進学し、まだまだ勉学に励まなくてはならない身、ここで悠々と過去を振り返り、きれいな思い出にしておくには早すぎるということです。来年度の目標は『自分を痛めつける。』でございます。橋本ゼミに入った当初の泣きの生活を思い出し、初心に帰って精進する、という抱負をもって、このエッセイを終えさせていただこうと思います。

 

 

 

 

吉田香織 4年間のおもひで

 

 北海道大学に入りたいと思ったのは、自宅から通うのに一番近いということが第一の理由であった。もちろん広大な敷地への憧れもあった。高校時代は大して勉強もしなかったために、一年間予備校生活を送り、ようやく北大に入学し大学生活が始まる。

 高校時代に部活に入っていなかったので、私は早速サークル見学を始める。といっても、最初からテニスをするつもりだったので、テニスサークルの見学を中心にした。五月くらいからはテニスの大会にも出させてもらうなど充実した日々を送り始める。大学の授業のほうはほどほどにし、テニスサークルでの仲間との遊びやテニスの練習に明け暮れる日々が始まるのである。苦手だったお酒も少しずつ飲めるようになり、遊んでいたらある日突然親の雷が落ちた。実家に住んでいることの弱みですね。しかも男の子だったら許されるところがそうはいかない。なんともくやしいけれど、親の目を盗みつつ充実した生活を送るのであります。

 大学一年のうちはなにもかもが新鮮であっという間に時は過ぎるのです。このころは比較的まじめに授業にも出ていたような気がする。

 大学二年になり、なぜかテニスに目覚めまして、朝練を始めました。家はなんといっても石狩なので、北大まで朝早くに来るのはつらいのですが、そのころはサークル仲間の男どもとストロークをして勝つことにひたすらよろこびがあったので、メキメキと自分の技術を磨いたわけであります。そしてそのテニスをすることへの情熱が強いあまり、大学の授業にはほとんどでなくなりました。もちろん代返を頼むことは忘れません。レポートを各授業にだけは顔を出しました。寝てることも多々ありましたけどね。

 経済学部に入ったのはいいけれど、全くもって経済の知識は習得していませんでした。ミクロとマクロは何がどう違うのという根本的なことも知らないまま、ひたすら炎天下のなかをテニスして過ごしていたのであります。そしてアルバイトもし、友達と夜も遊び、したいことはすべてこなしておりました。しかし、七月の終わりに天罰が突然降りたのであります。ある日、飲みにいったところ顔色がまだらに赤くなっておりました。赤くなるのは通常のことなのですが、まだらに本当に気持ち悪い顔になっていたので変だなぁとはほんの少しだけ思っておりました。その日は家に帰宅し、就寝。

 次の日私は死んでおりました。水を飲むこともままならないのであります。風邪をひいたのだな、と考えおとなしく寝ることにしました。3日も寝れば治るだろうと思っていたのですが、いつまでたっても治らないのです。仕方がないので幼いころから通っている病院へと足を運びました。足を運ぶといってもすでに何日も食べていないので、足元はふらふらで、家族の支えなしでは病院にも行けない状況でした。

 病院へつくと顔は土気色になり、血圧は低すぎて図れず、お医者さんには「のどが腐っています」といわれた次第です。遊びすぎはよくないですね。そんなこと普通の人は早めに気づくのですが、なんせ何かねじがひとつ足りないもんで、死にそうになってから気づきました。そして数日後には学部のテストが私を待っているという状況でした。もちろんパスしたのは一個だけという最悪な結果です。ひとつパスしただけでもいいと考えることもできますがね。

 後期になって、あいかわらず勉強はしていないのですが遊びは極力抑えるようになっていました。もう土気色の顔には出会いたくないので。そしてゼミ選びが始まったのであります。何に興味があるのか、ただひたすら海外への興味だけはありましたので、英語関連や海外留学を薦めているゼミを見学しました。経営学にも少し興味があったのでそちらもちらりと見たりしているうちに橋本ゼミを発見したのであります。

 希望したのはいいのですが、突然面接を希望者は受けることになり、そのためには今まで読んだ本など50冊書き出せという要求でした。そんなに本を読んでいない私はただひたすらこれからのゼミへの不安を膨らませるだけでした。

 奇跡的にゼミを通過した私は、先生と話しているうちに再び海外への憧れを膨らませていき、突如語学研修に行くことにしました。2月から旅立つことにして、すべての準備は急速に行われたのです。パスポートを持っていなかった私は間に合うのかドキドキしながら、一月に大急ぎでパスポートセンターへと向かい、国もカナダとイギリスで迷っていたのです。そのころはちょうど中東のほうが怪しい雲行きになってきたころで、ロンドンでは生物兵器が見つかるという騒ぎも起こっていました。ロンドンは何かと憧れていたのですが、安全性を考えてカナダのバンクーバーへ行くことにしたのです。

 初めての海外であり、一人旅でありました。もちろんホームステイをする予定だったので正確に言うと一人ではなかったのですが。成田行きの飛行機はかなりのちいさいものですごくゆれが激しく、前日に緊張して眠れなかったこともあり、気分は最悪でした。成田でひたすらカナダ行きの飛行機をまち、何時間か忘れましたがとにかく無事カナダに到着。

ホームステイ先には旅行会社の人が車にて送ってくれるので一安心。着いた先は全く日本語の通じない世界。体調が優れないにもかかわらず、自分の名前の発音を「きゃおり」と言われ、そこだけは譲れないとばかりに「かおり!!」と繰り返す私でした。着いてからとりあえず、一眠りをして近くのスーパーへ一緒に行きバスの定期などを購入。

 最初の一週間はひたすら英語になれるのに必死でした。話す言葉もばらばら。とにかく間違っていようがなんだろうがひたすら話していたので、二週間目からはすごく楽しくなってきました。ただ、ホストファザーにからかわれても、どう返せばいいのかがわからず、それだけがとても悔しい思い出なのです。

 ホストファミリーにはすごく恵まれました。自分の親のように接してくれたので、一度も日本に帰りたいとは思わなかったのです。食事もとくに日本食を恋しくなることもなく、食べ過ぎて太ってしまったくらいです。

 語学学校では台湾と韓国の友人を持つことができました。なんというかバンクーバーは日本人が多すぎて少しおもしろくない街であります。人との出会いは素敵だったので、その面ではバンクーバーに行ってよかったと。毎日11時ころには居間でテレビを見ながら皆でこっくりこっくりして過ごしておりました。とにかく充実はしていたのであります。

 帰国した後はしばらく海外熱が冷めずに、本気で留学をすることを考えていました。しかしながら、いろいろな人に相談するとほかに何も目的がないのなら行くべきではないと言われ、話すこと意外に勉強で好きな分野のない私にとってそれはとても厳しい助言でした。結局留学の話も流れてしまい、ただひたすらゼミの課題をこなす日々が続きました。

 今まで勉強していなかったつけがすべて回ってきたかのように、すごく大変な日々でありました。哲学書は脳みその軽い私にとってはすごく苦悩の日々で、日本語の難しさを痛感したのです。また、ゼミのほかの人々が脳みその濃い人ばかりだったことも私自身を苦しめる一要因となっておりました。

 そのような苦悩の日々のなか現実逃避もかねて、大学三年生の夏休みには一ヶ月の間マレーシアへ貧乏旅行をする決意をしました。それはかなり貴重な体験であり、学生時代しかできない体験のように感じました。やはり年をとると体力も落ちますので、あのような厚い国で11キロもするリュックを持ち歩くのは自殺行為5歩手前くらいのことになるかと思います。途中一度日射病になりかけたのですが、何とか持ち直し無事に旅を…と言いたいところなのですが、しっかりと氷に当たり3日間の入院をしたのであります。入院したときには初めて日本食が恋しくなりました。しかし入院を理由に旅を終えるのはいやだとひたすら考えていた次第で、ほんと能天気なやつです。

 いろいろあった旅ですが、親切な人々に助けられることによって無事旅を終え突如現実に引き戻されたのであります。すべては元通りでした。いや、むしろ急速に時間がたっていたのかもしれません。帰国してから何度も聞く言葉。それは就職活動という社会人になるための準備でありました。その時点では公務員には絶対なりたくないと考えており、民間の興味のある企業をちらちらと除いてみる程度でした。説明会などに足を運ぶうちに、私はだんだん就職活動が面倒になってきたのです。そんな数分の面接で何がわかるのだろうとか、逃げる理由を製作しつつ公務員試験の勉強へと逃げることにしました。

 マイペース過ぎる私が公務員へと進路を変更したのは2月。試験は6月から始まります。しかも最低なことにしばらくの間、予備校の授業を受けることだけで体力を使い果たし、復習は明らかにぼろぼろ。5月に模試を受けて初めて「やばい!!」ということに気づくおめでたいやつなのでした。それからは自習室にひきこもりの日々が始まりました。でも、言ってしまえば気づくのが少し遅かったようにも感じます。見事にすべての試験をすべり落ちました。「大学も浪人で、就職も浪人か。自分は何も成長していないのだな」としばらくぼーっと時を過ごしておりました。

 ふと気づけば、まだ市町村が残っているではありませんか。だめもとで再び図書館に引きこもりの日々が始まります。嫌いな勉強を始めると、なんだかげっそりしてきて人と会うたびに「やせた?」と聞かれ「ほんと!やったー」と言いつつ、(やつれなんだけどね…)と心のなかで毎回思う私でありました。

 そうこうしているうちに試験はパスしてとうとう就職が決まりました。それは12月。人よりも何かと行動の遅い私にとっては妥当な時期と言えるのでしょうか。でも本当に決まってよかった。これで心置きなく旅に出れるのだから。

 旅にはすでにこのレポートを書いている現時点では行ってきたのですが、それはまたの機会に話すことにしましょう。

 大学4年間をざっと振り返ってみると、ひとつ重大なことに気づくのであります。勉学面で成長したものが何もないのではないだろうか…という恐ろしい事実に気づくのです。人との出会いはたくさんあり、その間に学んだことはたくさんあるのですが、それは例えば数字や資格などに現れるものでもないわけで、私自身は成長しているのだろうかという疑問を抱くのです。海外へ行くたびに自分の小ささに気づかされてしまうのです。このまま生きていくと小さな世界で小さな自分のままで終わるのではないかという危機を感じます。それに気づくためにも海外へ足を運ぶことは重要だと思われます。もちろんそれは人それぞれなのですが。

 自分自身を磨くことを忘れずにこれからも前進していきたいと誓う次第です。